「わからない」と思うための対話 第10回 感想
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今回のテーマはこれ!
今回やるのはルート不明パターンです。
ルート不明の時の対応方法は、基本は「あきらめる」だと思ってください。
本人が分からないんだから、そのままだと基本は諦めるしかないんですよ。話を聞く側のポイントとしては、「なんとしてでも諦めさせずに問題解決をさせてやろう!」と“思わない”ことです。
相手が分からないって言ってるんだから、相手の分からなさを尊重しないといけない。
とはいえ一応、「見えていないだけでこういうルートがあることを知ったらやるかもしれないな」っていうケースはあるわけでしょ。こういう時にはルートを提案する、アドバイスや指示をするというやり方をやります。
ただこれはすごく険しい道なんですよ。久保君もTwitter 上で色んな人からアドバイスをされて「勝手に押し付けがましくアドバイスをするな!」とよく怒っているわけじゃないですか。そういう風に、人にアドバイスや指示をすると嫌がられたり怒られたりする可能性っていうのは結構あるんですよ。
めんたねさんはワークショップを通して何度も「相手が分からないと言ったら諦める」「聞く側は話す側より一生懸命にならない」「問題解決しなくてもいいやと思っておく」というようなことをおっしゃっているが、ぼくはどうしてもこのスタンスに納得できない。
言いたいことは分かる。話す側が分からないと言っているのに聞く側に分かると言われてしまったら癪だろうし、聞く側が一生懸命になりすぎたら話す側は引いてしまったり頭を使うのをサボったりしてしまうかもしれない。
でもやっぱり、「相手が分からないと言っても諦めない」「聞く側は話す側より一生懸命になる」「なんとしても問題解決しなければいけないと思っておく」というスタンスの方がいい場合はたくさんあると思う。
なぜなら、問題解決に一生懸命になれる人ばかりではないからだ。これまで何人かの相談に乗ってきてぼくはそれを強く感じている。
その問題について深く悩んでいるのに、「できればこの問題が解決したらいいな」ぐらいで、本気で問題を解決しようという強い意志を持っていなかったり頭を働かせるのを面倒がったりする人が多いように思う。
そういう人に対してめんたねさんの提唱する引きスタンスで相談を聞いた場合、「じゃあ諦めましょうか」と言ったら相手も「分かりました、諦めます」と引いてしまう気がする。相手に諦められてむしろやる気が出るのは問題解決に相当前向きな意志を持つ強い人だけなような気がする。
また、ぼくはまだそういう人と話したことはあまりないが、問題解決の意志が弱いどころか自ら破滅に向かっていく人もいる。
例えば「もう自分なんかダメだ、死んだ方がいいんだ」などと言っている人には、相手が引いても嫌がっても聞く側が相当熱くしつこく引っ張らないといけない場合がけっこうあると思う。
ぼくのこの主張に嫌悪感を持つ人は多くいるだろう。それはたぶん、今言ったようなスタンスをとって相手を救うどころかむしろ傷つけてきた無神経な人を実際に見てきたからだ。
湊かなえの『告白』に出てくるウェルテル先生みたいなのは本当にダメだ。何の信頼関係も技術もないのに引きこもりの生徒の家にしつこく押しかけてはいけない。それはただの自己満足であり害悪でしかない。
だが、かと言って引けばいいのかと言うとそうでもない。
ぼくは高校時代に1度だけ演劇部の休部を検討したことがある。顧問の先生に理由を聞かれ初めは「言いたくありません」と断ったが、「話すだけ話してみてよ」と半ば強引に言われたので話すことになった。
これは一見するとヤバい対応である。休部理由を話したくないと言っている生徒にやや強引に理由を話させているのだから(もちろん再度本気で断ったらそれ以上の無理強いはされていなかったと思うが)。
だが、顧問の先生にはぼくとの信頼関係と技術があった。ぼくは素直に理由を話し、先生はそれを熱心に聞いてくれぼくの心を軽くしてくれた。結局1週間ぐらいは休部をしたが、あの時先生に話をしていなかったら休部期間はもう少し長かったかもしれない。
このように、「解決する側が悩んでいる人より熱心になることで問題が解決する方向に進む」というケースはある。「ある」というか、このケースの方が多いとぼくは思う。
とは言え引きスタンスが役に立つ時や引きスタンスでないとうまくいかない時は確かにあると思うので、このワークショップでのやり方はしっかりと吸収していくつもりだ。
アドバイスっていうのは基本的には相手の耳が開くタイミングで行います。
「この人からこの件についてアドバイスが欲しい」ってまさに思っているその瞬間にその情報を出すと聞いてくれる可能性が高いんですね。「お腹が減っている時に飯を出す、満腹の時には飯を出すな」ということに尽きます。
ここはぼくにクソバイスをしてきた人に何度も読んでもらいたい。ぼくは満腹だと言っているんだからご飯を出さないで欲しい。
左側に悪徳セールスマンみたいなのがいますけど、何か人から言われたことに乗っかってそれを受け入れるって言うことに人間は基本的に抵抗感があるんですね。
それに対して自分で発見した見つけたアイディアっていうのは後生大事にとっておくわけです。四つ葉のクローバーを見つけたら嬉しくて大事に保管して本に挟んでしおりにしたりするわけですよ。
アドバイスをする時は、相当反発を招きやすいところを本当にうまいこと掻い潜っていかないといけないんです。だから極力したくないんですよ。
確かにぼくにもレンタル話し相手というアイディアは自分で思いついたから固執しているという面がある。
だけど一方で、人からもらったアドバイスにいつも抵抗感があるかと言えばそうでもない。尊敬する人から本当に納得できるアドバイスをもらった場合はぼくはすんなり受け入れて後生大事にしている。
なんだか、めんたねさんは人のレベルを高く設定しているのか低く設定しているのかよく分からない。
「分からないということを尊重する」「こちらがあきらめれば向こうは熱心になる」というのは相手のレベルを高く設定しているからこそ出てくる考えだが、「人は人から言われたアドバイスを受け入れにくい」というのは相手のレベルを低く設定しているからこそ出てくる考えだろう。
ぼくは真逆で、諦めに関しては「こちらが諦めれば相手も諦める」という風に相手のレベルを低く設定しているが、アドバイスに関しては「人は耳を開いている状態なら人から言われたアドバイスを割と受け入れる」という風に相手のレベルを高く設定している。
めんたねさんはぼくといちいち真逆で面白い。
というわけでルート不明時の対応方法3番目は、「自分でルートを発見させる」です。
なるべくだったら自分でルートを発見させて自分で「この道で行きたいです」って言ってもらえれば反発される心配ないですよね。こっちはルートを発見するためのお手伝いだけをする。黒子に徹する感じです。
逆張りばかりして申し訳ないが、自分で見つけたルートだからこそ不安ということはないのだろうか。
以前ワークとは関係ないZOOM配信で選択的夫婦別姓についてめんたねさんたちと話し合った時、「自分で選択をしたくない人がいる」という話が出た。そういう人は自分でルートを見つけるより、「このルートを進みましょう!」と人に押し付けてもらった方が安心できるのではないだろうか?
話を聞く側は「がんばれがんばれ」ってボンボンを振ってる側になって、実際に掘って宝を探して見つけるのは本人にやってもらいます。
質問する側っていうのはいつも相手の問題を解決するために頭を使うんじゃなくて、相手に頭を使ってもらうために頭を使うんです。ここだけは忘れないようにしてください。
自分で頭を使うのがかなり苦手な人に対してはどうすればいいのだろう。例えば10年引きこもっている人はたぶん自分で穴を掘りたくないだろう。やはり設定している人間のレベルがかなり高い気がする。
こういう状況を思い浮かべてください。
友達の家に遊びに行きました。友達の留守中に冷蔵庫を見たら色々なものがぎっしり詰まっているのでその中からなんとなく使えそうなものを探してみたら、カレーに使えるものがいっぱい出てきました。
なのでそれを引っ張り出して、机の上に置いておきました。そうすると帰ってきた友達が「あ、カレー作れるな」と思ってカレーを作り始めました。
今日やる作業はこれと同じような感じです。
冷蔵庫にあんまりぐっちゃぐちゃに物が入っていると、どこに何が入っているかも分からないからカレーが作れるって気づかないわけですよ。
でもしっかり整理してカレーの材料だけ引っ張り出してやれば、「あ、こんな風にしてカレーが作れるね」って分かるわけです。
もちろん作りたくなければ作らなくてもいいです。カレーを作れとは言われていないですから。ただ、「カレーを作るだけの十分な用意がありますよ」ということには気付かされたわけです。その上で作るか作らないかあなたのお好きにどうぞという話。これだとあんまり押し付けがましくならないですよね。
今日は「リソース」という言葉をよく使います。
これは直訳すると「資源」なんていう風に訳されますが、簡単に言うと「役に立つもの」ということです。
今回だったらカレーライスを作るのに役に立つものとして、リソースとして、お米とかカレー粉とかにんじんとかじゃがいもとかがあったってことね。
もちろん、鍋や炊飯器やピーラーや包丁やスプーンやお皿もカレーを食べるためのリソースになります。
なおかつ、「その人がカレーの作り方をある程度知っている」、もしくは「カレーの作り方のレシピをインターネットで検索して調べることができる」、これもカレーを作るために役立つリソースになります。個人の能力もリソースなんです。
こんな風に、何かの問題を解決するとか何かを実行する時にそれに役立つありとあらゆるもののことをリソースと言います。
で、問題が解決できないと悩んでいる時っていうのは、このリソースが足りなくなっているわけだよね。
問題を解決するのに役に立つための材料が見えなくて「解決できない」ってなってるわけ。
そこで、本人の中に冷蔵庫があって本人が既に持っているリソースというものを引っ張り出す質問をしてねとうのが、今日やることになります。
これは非常にいい例えだと思った。「その人が持っている数多くのリソースは引っ張り出して並べないと本人に気づいてもらえない」というのはぼくも前から思っていたことだったけど、冷蔵庫の例えはかなりしっくりくる。
相談に乗っていると、「いや、このリソースあるじゃん!なんで使わないの!?」と思うことが頻繁にある。最も多いのは「ネット」と「本」だ。
現代の日本において「方法が分からない」ということはまずあり得ない。誰もがネットにアクセスでき、図書館で無料で本を借りられるからだ。調べても分からないのはバズってフォロワーを増やす方法ぐらいである。
にも関わらず、「方法が分からないんです」と言う人がけっこういる。そういう人に「ネットや本で調べてみましたか?」と聞くと、大抵は「まだです」という答えが返ってくるが、調べるということの価値を低く見積もりすぎである。
『夢をかなえるゾウ2』にこういう一節がある。
「本を読んだくらいで何が解決するっていうんですか」
するとガネーシャは不思議そうな顔をして言った。
「いや、むしろ本読んで解決せえへん問題なんてあれへんで」
そしてガネーシャは図書館を見上げて言った。
「仕事、お金、人間関係、幸せ……人間の悩みなんちゅうのはいつの時代も同じや。そんで本ちゅうのは、これまで地球で生きてきた何億、何十億ちゅう数の人間の悩みを解決するためにずっと昔から作られてきてんねんで。その『本』でも解決できへん悩みちゅうのは何なん? 自分の悩みは地球初の、新種の悩みなん? 自分は悩みのガラパゴス諸島なん?」
まぁ、実際には本を読んで得た知識を実行に移すことこそが大事で難しいので本を読んだだけでは解決しないのだが、せっかくのリソースを使わないのはもったいないなとぼくはいつも思うのである。
「使えるのに使わないリソース」でもう1つ強く言いたいものがある。ぼくだ。
ぼくを使い続ければいつかは高確率で悩みが解決するというのに、なぜ使わないのだろうか。「使ってね!」と冷蔵庫の中から常に叫んでいるというのに。
そういうことを考えるにつけ、やはり人は「問題を解決しようとする意志が弱い」のだと思ってしまう。だから冷蔵庫の中で調理されるのをじっと待っているだけではダメで、「料理しようぜ!」と強くアピールしなければならないのだ。
こう聞くと例外がけっこう出ます。これは掘れるだけ掘った方が得です。だってリソースは無いよりあった方がいいから。
これはなぜかやったことがないな。今度やれる時があったらやってみよう。
それでも悩みが深い人っていうのは「全部ダメなんです」って言いたがりなんだよね。そういう時にどうするかって言うと、まず「全部ダメ」っていうのを2つに分けるっていう感覚を持つんです。
「全部ダメ」の中に「特にダメ」っていうのがあるでしょ。で、「特にダメ」が語られると残りがなんなのかって言うと、たぶん「まだマシ」なんですよ。そうすると「全部ダメ」の中でも左側の「まだマシ」っていうのはけっこうリソースがある可能性があるわけ。
勉強が嫌いな子どもに勉強を教えに行った場合で考えてみようか。
「君は勉強嫌い?」って聞くと、「うん、嫌いです。全部嫌いです」って言うわけ。その時にいきなり、「全部嫌いって言っても中には嫌いじゃない科目もあるでしょ?」って言うと反発するんだよね。「全部嫌いなんです」って言いたいんです、やつらは(笑)
じゃあどうするかって言うと、「なるほどね。じゃあいろんな科目の中で特に1番嫌いなのは何?」って聞くわけです。
久保)なるほど、嫌いっていうベクトルに合わせるわけですね!
そうそう、「嫌い」って言いたいから。
で、「勉強する科目の中でも1番嫌いじゃなくて手をつけてもいいかなって思えるものから一緒にやろうか」って聞くと、割と乗ってきたりするんだよね。
もちろんいきなり例外から入ってOKなケースもあります。それは相手の様子によるんですが、慣れてくるとだんだん勘が働くようになります。
これはめちゃくちゃ感心してしまった。めんたねさんは一貫して「相手の感情を逆撫でしない」「相手から反発されないようにする」ということを極めて大事にしているが、中でもこれは本当に上手い手だなと思った。
親や先生はこれが本当に下手である。子どもの感情を逆撫でして反発させる天才だと思う。
なかなか負荷の高そうな質問である。かなり上手くやらないと質問されるのを嫌がってしまうだろう。
うまくいかない時に「なんでうまくいかないと思いますか?」って聞くとすごく暗い気持ちになっていくんですよ。で、絶望的に問題解決できないような感じになってくるわけ。
ただ例外を引っ張り出してうまくいったケースについてワケを聞いてみると、何かそのうまくいったっていうことをこの先2回3回4回と回数を増やして繰り返すためのヒントが出てきたりするわけです。
これはどうなのだろう。
今回ぼくが話した「アルバイトをせずに済むようになりたい」という話で言えば、確かに例外はたくさん出てきたがぼくはその例外について全て聞かれる前から詳細に分かっており、同じ手が使えないか何度も考えた上で「もう使えない」と判断したから相談したのである。なので正直「そこを掘ったって何も出てこないんだけどなぁ。過去にうまくいった事例から今使える手を思いつけないバカだと思ってるのかなぁ」と思ってしまった。
他の人はこうは思わないのだろうか。
無力感のある人は過去の成功事例を軽視する傾向にあるらしいので有効かもしれないが、他の人はどうなのだろうと疑問に思った。
山を登る時に「2本の足があって歩ける」っていうのもリソースなんだよ。足がなかったら歩けないから。
「ここから先がリソースだ」みたいなラインはどうでもよくて、「とにかく役に立つものを全部引っ張り出す」っていう感覚をリソース探しの時は持ってほしい。「2本の足があって歩ける」っていうレベルでいいから。そういうレベルで見ないとリソースが見つからない人がたくさんいるから。それをちょっとでも大きくしていけばいいんだよ。
この話を聞いた時は「『2本の足があって歩ける』レベルは流石にバカにしてないか?」と思ったけど、よく考えたら「ネットや本で調べ物ができる」というリソースも見つからない人が大勢いるから、やっぱりこのレベルでいいんだろう。
「どうにもこうにもリソースが出てこない」っていう、すごい苦しそうな口調の人がいるわけよ。その時に最後の手段として使うのがこれです。
これはとても良い質問だと思う。
たまに気まぐれでTwitterの病み垢を見てみると毎日ネガティブなことしかつぶやいていない人が大量にいて、こういう人にはどれだけ質問してもリソースが出てこないかもしれないなぁと勝手ながら思ってしまうが、この質問であれば喜んでスルスル答えてくれそうな気がする。
この「〜する能力」と言ったからといってAさんが「確かにそうですねってと飲み込んでくれるかどうかは分からないんだよね。
ここはいつでも難しいところで、何のためにこのワークをやるのかって言うと、相手がダメなんだとか無理なんだとか欠点なんだとかいう風にネガティブな意味合いを持って語っていることの中にもポジティブな意味やうまく使える状況を探すっていう発想を持ってもらうための思考の練習っていうのかな。トンチみたいなものなんだよね。
これやってると上手くなるんだよ。やらないと向こうが「もうダメなんです」っていう雰囲気で何かを語った時に本当にダメな気分がしてくるわけ。
でも慣れてくると、向こうが「ダメです」っていう雰囲気で話してても、「それをうまく使って何かできないかな」という風に聞けるわけ。
「使えるものをなるべく使う」、ユーティライズなんて言うんだけど、そういう発想をなるべくここで持って欲しいなと思います。
「欠点を『〜する能力』と言い換えるなんてそんなバカな」と最初は思ったけど、やってみると楽しかったしかなり深かった。なるほどこれは面白い。
どういう能力に言い換えればいいのか分からない場合も、めんたねさんがおっしゃった「欠点として語ったことの裏返しを考えてみる」という手筋なら色々思いつく気がした。
でも、上記のように言語化や理論化はしていなかったけど、「あるケースでは欠点になることもあるケースでは長所になる」という考えはもともとぼくも持っていた。
そもそもぼくは自分に致命的な欠点はないと思っている。「アルバイトにやる気を持てない」という欠点には「アルバイトをせずに済むように頑張る原動力になる」というメリットがあるし、「家事を苦痛に感じる」という欠点があるおかげで「秘書にお願いしよう」という発想になり仕事に費やす時間を増やすことができるのだ。
ぼくがアルバイトも家事も大好きな人間であったら、ぼくの夢は遠ざかってしまう。ぼくはまだ自由に生きられない身なので欠点に非常に苦しめられているが、自由に生きられるようになればぼくの欠点は長所になる。ぼくは自分の夢にとって非常に都合の良い性格や能力を持っているのだ。
ぼくはそう考えているので、親にどれだけ「あんたの欠点はね……」と言われても全く意に介さないのである。
このことは何度も親に伝えているのに全く理解されないのを非常に不満に思っているので、今回北村さんにぼくの欠点を良いように言い換えてもらったのは嬉しかった。ワークの時間はぼくに複雑な思いを持っている人もちゃんと悩みを聞いて優しくしてくれるので都合がいい。
あとワークの内容とは関係ないが、めんたねさんが紹介した、「ミルトン・エリクソンは色々な障害を持ち弱く見えるが、それによって治療相手に『自分の方が強い』と思ってもらえるので心理的治療にはむしろ都合がいいと本人は考えている」という話には感動した。これは本当にいい話である。
ぼくは自分の身体が小さいことや喋り方が幼いことによってかなりの損失を被っている。この2点がなければこの性格を持ってしても人からナメられることはだいぶ少なくなっているだろう。
そのことは極めて悔しいのだけど、ぼくはこれでいいのだと思っている。なぜなら、その方が相手にとってサービスになるからだ。
『夢をかなえるゾウ』の作者の水野敬也氏はブログ『ウケる日記』のある記事でこのように書いている。
僕は過去の著作でも、
「成功者が上から目線で成功する方法を語るのではなく、何も取り柄の無い人間が人に役立つ情報を伝える」
ということをスタンスとして貫いてきました。
しかし、自分の弱みであるルックスを隠して評価を高めようというのは、
「自分の恥をさらすことが人に勇気と安心を与える」という信念に反するものだと気づかされたのです。
物ごころついた頃より、僕は「笑わせる」より「笑われたい」と思ってきました。
笑われることは見ている人に優越感を抱いてもらえるので
その分「サービス」としての価値が高いと思うからです。
(引用元:お金持ちになる方法 | 水野敬也オフィシャルブログ「ウケる日記」Powered by Ameba)
この精神である! ぼくはこの精神を大事にしているのだ。
ぼくは今は成功していないから萎縮させることはなくナメられているだけだが、成功した後はどうやったって相手を萎縮させてしまう。「こんな大成功した偉い人に反発するようなことを言っちゃダメだよな」と少なからず思わせてしまう。
ぼくはそれを非常に危惧しているのだ。反対意見はどんどん言って欲しいし、ぼくの欠点も遠慮なく指摘して欲しい。際どいイジリやツッコミもガンガンして欲しい。そうしてもらわなければ相手と最善のコミュニケーションが取れないし自分が成長できなくなってしまうし、お互い楽しくなくなってしまう。
だからどれだけ成功しても偉くなっても、適度にナメてもらいたいのだ。その時、身体が小さく喋り方が幼いという「欠点」は「長所」になる。ぼくが今ただナメられている状況を我慢できているのは、その未来を楽しみにしているところが大きい。
「今のうちに散々ガチでナメればいいさ。成功したらこのナメられる要素がちょうどいい具合に機能してぼくは誰よりも親しまれ愛させる人になるからな!」
ぼくはずっとこう思っている。
こういう体と性格に生まれて、本当に良かった。