「わからない」と思うための対話 第2回 感想

 

めんたねさんのワークショップの第2回が終わった。

笑う場面が多く表面的には和やかなワークショップだったように見えたと思うが、ぼくは実は心の中でかなり色んな思いが渦巻いており、終わった後もずっと頭がぐるぐるしていた。

 

どんなことを感じ考えたのか、詳細に書いていく。

 

 

動画はこちらからどうぞ。

 

www.youtube.com

 

 

※1.資料の転載許可はめんたねさんから頂いている。

 

※2.

 こういう風に 

 

小さく薄い文字で書かれているのはめんたねさんの言葉の引用である。

 

※3.この記事でぼくは、自分の話の聞き方について、「これはできなかった」という反省とともに「ここはできたと思う」という肯定的な分析結果も憚らずに書いている。なぜかというと、反省だけ書くのはフェアではないからだ。

自分のことを肯定だけするのはバランスに欠けているが、同時に、否定だけするのも同じくらいバランスに欠けている。両方率直に書くべきだと思う。

 

本当は客観的な評価も書きたいのだけど、ほとんど主観的な分析結果しか書けない。なぜなら、ワークショップに関わっている3人以外は誰も何も言ってくれないからだ(泣)

 

 

こうツイートしたのに、リプライでもDMでも1つの意見ももらえない……。

 

だからほぼ主観的な判断しか書けないが、もしこれを読んで「それは違うぞ!」と思うところがあったら、肯定的なことでも否定的なことでもなんでもいいから教えて頂けると嬉しい。

 

 

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ワークショップの流れ

 

簡単に流れをおさらいすると、

 

1.北村さんの悩みを、ぼくが普段やっているやり方で聞く

2.今回のワークショップで学ぶやり方をめんたねさんがぼく達に教える

3.めんたねさんがそのやり方を実践して北村さんの話を聞く

4.そのやり方を各自がローテーションで真似してフィードバックをもらう

 

という感じだった。

 

 

 

相手の望みを重要視していなかった

 

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これからやるのは質問ワークというものになります。
主に質問だけ使って相手の話を聞くというものです。

目的は何かって言うと、相談をする人、話し手側の人が何を悩みとしていて何を望みとしているのかっていう、悩みと望みを共有することです。

(悩みと望みは)裏表の構造になっていることが分かるので、悩みを聞いてから望みを聞くという流れになります。

 

第1回の時の衝撃が再び走った。「ごく当たり前のことを言語化してルールに設定していなかった!」というやつだ。

 

考えてみれば本当に当たり前のことじゃないか。スタートとゴールをはっきりさせずにどうやって相談に乗るというのか。

 

「何を悩みとしているか」に関しては、ぼくは必ず聞くようにしている。第1回の感想の繰り返しになるが、回数は少ないものの、相手の話を聴き終わった後に「つまり〜っていうのが辛いってことなんですかね?」と質問することは徹底しているつもりだ。

 

ただ、「何を望みとしているか」についてちゃんと聞かなければという意識に関してはあまりなかった。

 

今回のワークではたまたま「北村さんは今のその気持ちをどうしたいんですかね?」と質問できていたけど(一応伝えておくと、ぼくは北村さんの話を聞く前に資料は一切見ていない)、今までの相談依頼を思い返したらそういう質問をできていないことの方が多かった。相手の望みを聞かないままアドバイスをしていたのだ。

 

なんでそんなことをしていたんだろう? というのがなかなか分からなかったんだけど、随分長い時間考えたところ、ようやく分かった。

 

ぼくは、「相手の望み」はそんなに重要なものではないと思っていたからだ。

 

とんでもないことを言ってるように聞こえるだろうけど、これにはぼくなりの考えがあるので説明させてほしい。

 

その考えとは、「必ずしも相手の望みを叶えるのが解決ではない。解決策はその人の望みとは全く関係ないところにある場合が往々にしてある」というものだ。

 

どういうことか、例を挙げよう。ぼくが相談する側だった時の話だ。

 

ぼくは会社を辞めた後しばらくは、レンタル話し相手などやらずにいきなり学校を創ろうと考えていた。投資家に投資をしてもらえばいいと思ったのである。

 

ぼくはある人に「投資家から300万円投資してもらうにはどうすればいいですかね?」と相談したら、その人はその方法を色々と教えてくれた後でこう言った。

 

「まぁでも本当のことを言うと、今の君は投資を狙ってもまず上手くいかないから、まずは自分でお金を稼ぐ方法を考えた方がいいと思うけどね」

 

正直ぼくは、「この人は何を言ってるんだ?」と思った。

ぼくの望みは投資をしてもらうことなんだからそれだけ教えてくれればいいんだよ。難しいことは分かってるけど、自分でお金を稼ぐなんて絶対やりたくないから相談に来てるんじゃないか、と。

 

だけど、どうしてそんなことを言ったのかが知りたくて質問をしたらその人は理由を親切に色々と教えてくれ、ぼくは一瞬で考えが変わった。

 

「何の実績もない奴がいきなり投資してもらうなんておこがましいにもほどがあるわ!お金は自分で稼がないとダメに決まってるだろ。自分はバカか!」

 

つまり、「自分の望み」とは全然関係ない視点のアドバイスが役に立ったのである。

 

こういうことはぼくが相談する側の時に他にもいくつもあったし、相談に乗る側の時も同様だった。むしろ望みに沿ったアドバイスが役に立ったことの方が少ないような気がする。

 

 

エンゼルバンクドラゴン桜外伝ー』という漫画に、こんなシーンがある。

 

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2巻の15話より引用。

↓の「スキマ」というサービスなら1話65円で読めます。

https://www.sukima.me/book/title/angelbank/

 

 

ぼくはまさにこういう考えを持っていたので、相手の望みを正確に知ろうという意識が希薄だったのだ。

 

 

だけど今回のワークショップを受けて、その意識は改めなければといけないと強く思った。

 

「相手の意見を無視した提案をすること」が間違っているという訳ではない。めんたねさんも「これ(実現不可能な望みなど)を何か少しずつ正そうとか思った時にはもう少し戦略的に考えて作戦を立てなきゃいけない」とおっしゃっていたように、そうすることが必要な場面はたくさんあるだろう。

 

だが、「まずは」相手の望みをしっかり聞くことが必要なんだと思う。

何故なら、そうすることでよりはっきりと「味方ポジション」に立つことができて相手に安心してもらえるからだ。

相手の望みに沿わないアドバイスをするとしても、それはまず相手の望みを聞き、それを叶えようと一緒に悩んで(少なくとも悩むフリをして)からでないといけない。

  

そのことを学べたのが非常に大きな収穫だった。

 

 

 

 

さて、ここでお伝えしなければならないことがある。

第1回は基本的に、ここまでのような感じで「こういうことを教えられて新鮮だった。こういう反省をした」みたいな話をしてきたし、ワークを受ける前までは第2回もほぼそういう感じにするつもりだったのだが、ここからは全然違う感じの話になるということだ。

 

理由を一言で言うと、「今回のワークショップの大部分の教えが、自分で元々考えていたことだったから」である。

 

こんなことを言うとまた傲慢だとか失礼だとか思われてしまうかもしれないが、事実そうであったし、ぼくの書きたいことを書くためには率直に言うしかないのでどうか勘弁して欲しい。

 

 

ワークショップの感想というよりはほぼぼくのエピソードトークみたいになってしまったが、どうしても書きたかった。読みたかったものとは違っていて不満に思われる方がいるかもしれない。そうであったら申し訳ない。

 

かなり長いし、つまらないと思ったら途中で遠慮なく読むのをやめて欲しい。

 

 

 

 

教えに心から共感した

 

まず似た内容の資料と説明を3つ連続で引用し、その後でぼくの感じたことなどを書いていく。

 

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最終的にアドバイスをするとか提案するとか何をするにしても、相談された人から「この人は自分の味方であって自分の望みに協力してくれる存在である」という風に思ってもらわないと、心の距離ができてしまって影響力が持てなくなってしまう。

まず、「この人は自分の味方なんだな。自分が望んでることを何か実現する協力をしようとしてくれてるんだな」と思ってもらう。

そういう風に「相手の味方ポジションに入る」っていうのが、質問だけ使って相手の話を聞く目的の2番目です。

だから、

1.相手の悩みと望みをきちんと共有し

2.味方ポジションに入る 

この2つの目的を達成できればまずOK とする。問題解決はその先の話。

 

 

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「こういう風に考えたらどうですか?」とか「ああしたらどうですか?」みたいなのを極力使わないということ。 

僕らは「解決病」という病気にかかっていて、人から悩みを相談されると、「とにかく何かしら問題解決につながるようなことを言ってやらなきゃいけない!」というような脅迫観念に囚われるんですよ。

 

(久保:めちゃくちゃ分かります)

  

 

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中には相談を聞いていると、「お前それは無理だろう」とか「何を言ってるんだ」とか「そんな夢物語を語ってどうするんだ」みたいな説教をしてやりたくなることがあるわけですよ。

でもそれをやってしまうと、相手は「この人は自分の味方だ」と思わなくなって味方ポジションから外れてしまうわけだよね。そうすると言葉の影響力が失われちゃうわけです。

だから影響力を確保しておくために、それがどんなに支離滅裂だったり実現不能だと感じられたりやばい事実誤認でしょうと思っても、とりあえず「そう思ってるんですね」という風にまずは否定せずに受け入れておく。

これを何か少しずつ正そうとか思った時には、もう少し戦略的に考えて作戦を立てなきゃいけないんだ。

 

ぼくはこれらの話を聞いて思った。

 

 

 

「ホンッットそれな!!!!」

 

 

 

本当にどれだけ強く共感したか分からない。

ぼくはまさにこれらのルールが大事であるとずーーっと考えていた。

 

 

ぼくは自分が抱えている悩みを解決したいという意志が強いので、相談をする機会が非常に多い。

 

「大学中退を親に猛反対されてるんだけど、どうすればいいかな?」

「どうやったら会社で働くモチベーションが持てるのでしょうか?」

「友達を怒らせちゃったんだけど、どうしたら良かったのかな?」

 

そういう時、必ずと言って良いほど一言目でこう言われるのだ。

 

 

「バカだなぁ。こうした方がいいよ」

 

 

誇張でなく8〜9割ぐらいの人がこう言ってくるのだ。ぼくは本当に本当にこれが嫌だった。

 

「こっちは勇気を出して心を開いて相談してるのに、なんでいきなり否定とアドバイスをしてくるんだよ。まずは『それは辛いね』って寄り添ってくれよ。そりゃぼくもバカで見えてない部分はあるんだろうから指摘もアドバイスも欲しいんだけどさ、そういうのはぼくの傷を癒してくれてからでいいじゃんか。孤独で辛いのに冷淡に殴ってこないでくれよ。こっちは既にボロボロなんだよ」

 

でもそんなことは言えない。なぜって、相手は善意で時間を割いて相談に乗ってくれているからだ。その善意にさらなる注文をつけることはできない。

 

だからぼくはグッと気持ちを押し殺して、「なるほど……」と言う。

でもアドバイスに一発で納得できることは少ないから、「でも〜〜〜だからそれは難しいような気がするんだよね」というようなことを控え目に言うと、「せっかくアドバイスしてあげてるのに頑固だなぁ……」みたいなことを不満そうに言われるのだ。

結局、ぼくの悩みは解決しないどころか、相談する前よりもっと辛く寂しい気持ちになっているという散々な結果に終わる。

 

これが相談ならまだいい。ぼくが「アドバイスが欲しい」とお願いしているのだから。

だが、愚痴の時もこれをやってくる人がいる。「いる」というか、これも8〜9割の人がそうだ。

 

ぼくはただ「それは辛かったね」って言って欲しいだけなのに、一切の共感なくいきなり「それは久保が悪いよ。こうした方が良かったと思うよ」と言ってくるのだ。

 

 

ぼくが相談を多くするようになったのは大学生になってからなのだが、こういうことが何度も続いた時、ぼくは思った。

 

 

人って、話を聞くのが基本的に下手なんじゃないか?

 

 

これを読んでいる皆さんは、また「大勢の人をバカにしている傲慢な考えだ」とか「ナチュラルに失礼だ」とか思うかもしれない。

ぼくも当時はそう思った。大体の人は話を聞くのが下手なんて、そんなことあるわけがない。ぼくの思い違いだ。

 

だからその考えが頭をよぎってから、ぼくは愚痴や相談をする度、人はどういうことを言うのかかなり慎重に聞いてデータを取ってきた。

 

その結果、やっぱり思い違いでないと分かった。相談や愚痴を聞いた時、大半の人は共感ではなくまず否定やアドバイスから入る。これは間違いないことだった。

 

 

 

 

自分も同じことをやっていた

 

では自分はどうなんだろう? ぼくも誰かの愚痴や相談を聞いた時、すぐに否定やアドバイスをしてしまっているだろうか?

 

そういうことを意識して過ごしていると、何回もそうやってしまっている自分に気が付いた。否定は基本的にしなかったが、「将来こういうことやりたいんだよね」みたいな話を人から聞いた時、何の前置きもなしに「それはこうしたらいいんじゃない?」と言っていたのだ。

 

これはとてつもない衝撃だった。

あんなに「いきなりアドバイスしてくるんじゃねえよ!」と怒っていたのに、逆の立場になった時はぼくもいきなりアドバイスしてしまっていたのだ。相談の時も愚痴の時もである。

 

ぼくはこの時痛いほど悟った。

 

 

「『相手の立場に立つ』って、本当に難しいな」

 

 

この「相手の立場に立つ」というのは、高校2年生の時からのぼくの最大のテーマの1つだ。常に自分に言い聞かせている。

 

にも関わらず、そうしているつもりの自分でもそれができていなかったのだ。本当にゾッとした。

 

だが、同時にぼくは、これはいいことだと思った。

なぜか?

 

 

「自分は相手の立場に立てていないんだ」ということが自覚できたからである。

 

 

まさにこのワークショップのタイトルにつけられたテーマと同じであるが、ぼくは「自分はできていない」ということを理解することは「できた」のだ。

 

今まで自分にいきなりアドバイスをしてきた人たちのことを思い出した。

あの人たちはこの自覚ができているんだろうか?

分からないけど、たぶん、できていないんじゃないかと思った。

 

ぼくは幸いにも自覚できたんだから、この気づきを無駄にしてはいけない。絶対に変わろうと決めた。

 

 

 

 

「自分は話を聞くのが上手い」と自覚した時

 

それからはアンテナをビンビンに張るようにした。人と話をしている時、アドバイスする余地があったら「気をつけろ!」と自分に言い聞かせて立ち止まるようにしたのだ。

そして基本的には何もアドバイスせず受容や共感だけをするようにし、どうしてもアドバイスをしたいと思った時は、まずは共感しまくって味方アピールをこれでもかというほどした後、「もし良かったらアドバイスしても大丈夫? まぁたぶん役に立たないとは思うんだけどさ」というような言い方をするようにした。

 

 

もちろん、そう意識した途端に完全にできるようになったわけではない。人と別れてから「あっ、あの時また無意識にいきなりアドバイスしてしまった!」と気づき反省することは何回かあった。

 

だけどそうやって気をつけまくった結果、そう時間をかけずに理想通りの振る舞いができるようになった。「いきなりアドバイスをしない」ことができるようになったのだ。

その自分を俯瞰し、「よし、できてるな」と何度も確認した。

もちろん、どんなに「それは違うだろ」と言いたくなるような突飛な内容であっても、「味方でいること」「相手の言うことをまずは受け入れること」も徹底した。自分はそうしてもらえなくて辛かったからである。

 

そして、ほぼ無意識にそれらのことができるようになった時、ぼくは思った。

 

 

「ぼくは今、『話を聞くのが上手い』と言えるんじゃないか?」

 

 

ぼくはそれまで、自分が話を聞く能力に特別秀でているとは思っていなかった。

 

人に相談されて感謝されることはそこそこあったから、「どちらかと言えば上手い方なのかなぁ?」とはぼんやりと思っていたけど、そういう体験をした回数はたぶん人並みだろうし、話を聞く時に意識していたのもせいぜい「否定しない」「一生懸命聴く」ぐらいのことぐらいしかなかったからだ。

 

だけど新たに意識することが増えた時、明確な「対比」が生まれた。

 

 

大半の人ができていないことが、自分はできている。

このことを客観的に感じるようになり、ぼくは生まれて初めて、「自分は話を聞くのが上手いんだ」と自覚した。

 

 

これが、ぼくが「自分は話を聞くのが上手い」と思うようになった経緯と根拠である。

 

(「客観的に感じるようになり」と言ったが、もちろん完全に客観的になれてはいない。どんなに俯瞰しているつもりでも結局は主観の域を出ないし、相手から好意的な評価を受けることもあったがお世辞である可能性が当然あるからである。だが少なくとも、「なるべく客観的であろう」という意識は常に持つようにしていた)

 

いつか別のところで詳しく話すと思うが、「話すのが上手い」というのにも、「優しい」というのにも、「論理的思考力が高い」というのにも、全て同じような経緯と根拠がある。

 

めんたねさんのこのnoteの記事の一部を引用しよう。

 

note.com

 

普通に生きていると、「いやあ、俺って頭が良いなあ」と思う機会は滅多にないものだ。自分の思考が自分の判断基準になりやすいからだ。仮に周りと比べて自分に優れた「論理的思考力」があったとしても、自分の頭の中ではいつも通り、ごく当たり前にものを考えているだけである。その過程を他人に見せることもあまりないし、比べることもないため、普通はさほど強く自分の論理的思考力の高さを自覚することはない。

 

おっしゃる通りである。判断基準が自分の思考や能力しかなければ、自分が優れていると思うことはできない。

いや、根拠のない自信というのはあるからできると言えばできるんだけど、それは正しい自信ではない。

 

ぼくは高校2年生の時までは、正しくない自信を持っていた。比較する対象がいなかったり無視したりしていたから、根拠なく自分はできる人間なのだと思い込んでいた(コミュニケーション力に関してとかではなく、ただ漠然と『自分はできるヤツだ』と思っていた)

 

だけど、今は違う。

ぼくは今話したような「対比」を通し、都度改善を繰り返し、少しずつ自信を積み上げていったのだ。

改善を繰り返してきた自分と改善を怠っているように見える他者を冷静に対比できているから、ぼくは「自分は優秀だ」と自信を持って言えるのだ。

 

 

 

 

今回のワークショップでの振る舞いはどうだったか

 

さて、何人かは今こう思っているかもしれない。

 

「いや、今回のワークショップでも北村さんにアドバイスしようと必死になってたじゃないか!」

 

確かに北村さんは

 

「どういう風に答えを出してあげればいいんだろうというのが伝わってきて、自分の気持ちや悩みを話すと言うよりは、思いを聞いてもらうというところから逸れていっちゃった感じがした」

 

とおっしゃっていたし、ぼくが今回のワークショップでの聞き方ができていなかったのは間違いない。

 

だからぼくもつい「アドバイスしようと必死になってしまって反省しています」みたいなことを言ってしまったが、直後にめんたねさんがおっしゃった通り、ぼくが北村さんの話を聞いた時は今回のワークショップの聞き方を知らなかったわけだし、今回教えられたことはあくまでも「こういう聞き方があるんだ」という方法の1つに過ぎず、絶対的なものではない。

 

一方、普遍的に守らなければならない基本ルールはちゃんと存在する。これだ。

ぼくはこのルールに100%同意する。

 

 

 

ぼくは今回、アドバイスを伝えようとする前にこの1〜3をしっかりやった。

「1〜3を全部やったよな。もう4に行って大丈夫だよな」と頭の中で何度も確認してから4に行ったので、「いきなりアドバイスをしない」という自分で決めたルールを守れなかったわけではない。だから、特段問題ではないのだ。

 

もちろん、今回のワークショップで学んだ聞き方はまた努力して必ず身につけるつもりである。

 

 

 

 

ぼくの考えが正しかったと証明された

 

ところで……

ぼくは今回のワークショップでこの3つのルール

 

・味方ポジションに入る

・指示やアドバイスは(極力)行わない

・相談者の言うことは否定せず受け入れる

 

をめんたねさんの口から聞いた時、とてつもなく嬉しかった。

なぜなら、「ぼくの考えは正しかったんだ」と初めて確認できたからである。

 

先ほど、「人は話を聞くのが基本的に下手なんじゃないか?」という疑念が、相談や愚痴を持ちかけた時の相手の一言目のデータを取ることで確信に変わったという話をした。だが実を言うと、真に確信はしていなかったのである。

 

なぜなら、「『相談や愚痴をした時にいきなり否定やアドバイスをされると嫌だ』と感じる人は少ない」という可能性があるからだ。

 

あまりにも多くの人がいきなり否定やアドバイスをしてくるのでぼくは、「ひょっとしてみんな逆の立場になった時にそうされるのが嫌だと感じないのか? ぼくの感覚がおかしいのか?」と疑問を持つようになった。

ぼくは考え方だけでなく感じ方もかなり独特なので、充分あり得る話である。

 

実際ぼくは1度、求めてもいないのに友達にマシンガンのように否定やアドバイスをされまくって半ギレしたことがあるのだが、その時に「◯◯さんだって同じことされたら嫌でしょ?」と聞いたら、「いや、私は嬉しいけど」と答えられたことがある。

 

だからぼくはずっと、自分が傾聴する時に大切にしているルール、

 

・いきなり否定やアドバイスをしない

・相手の味方であることをアピールする

・どんなに違うと思っても相手の言ったことをまずは受け入れる

 

これらを絶対的に大切なものだと思っているのは自分だけで、他の多くの人にとっては大切ではないのかもしれないという疑念を捨てきれずにいた。

 

もしこの疑念が正しいとしたら、ぼくはめちゃくちゃ滑稽だ。全く無意味な対比や改善を何年間もし続け、それで自分は話を聞くのが上手いと思い込んでいるのだから。

 

ぼくはコミュニケーションについて本などで学んだことが全くと言っていいほどなかったから、社会一般的に良いとされる傾聴ルールを知らなかった。

 

しかも、ぼくの傾聴スキルについて誰かから褒めてもらえることは皆無と言っていいほどなかった。

(友達は少ないが)仲のいい人はたくさんいるのにぼくに相談してくれる人なんてほとんどいないし、数少ない相談してくれる人はたまに「話して良かった!聞くの上手いね!」なんて言ってくれることもあるが、具体的なスキルを褒めてくれることは当然ながらない。

流石のぼくも「こういうルールを守りながら聞いてみたんだけどどうだった?」なんて聞く厚かましさは持ち合わせていなかったから、「聞くの上手いね」という言葉に、「一生懸命聞いてくれてるね」以上の意味があるのかどうかなんて全く分からないのだ。

 

 

そんな中で、ぼくはレンタル話し相手の活動を始めたのである。

 

ぼくならできると言ってくれた知り合いは1人もいなかった。

自分で決めた傾聴ルールが正しいのか分からなかった。

「お前なんかに話を聞いてもらいたいなんて誰が思うんだよ」というリプライが無数に来た。

 

それでもぼくはたった1人、自分で自分を信じた。

自分がしてきた対比と改善は間違っていない筈だと信じた。

たまに依頼してくれる人たちからの「助かりました」という言葉を信じた。

 

そして今日(こんにち)、ぼくはこのワークショップの第2回を受けた。

めんたねさんが資料を見せながら傾聴ルールを説明するのを聞いて、ぼくは思った。

 

 

 

「これ、絶対に大切にすべきだとぼくがずっと考えてきたルールじゃないか……」

 

 

 

正直、あの3枚のスライドを見て「なるほど」とは少しも思わなかった。ただひたすら、「そうだよな」と心の中で頷いていた。

 

なるべく表には出さないようにしていたが、ぼくは内心、弾けんばかりに喜んでいた。

 

 

「そうだよな、これらは守ってもらえたらほとんどの人が嬉しいと感じる普遍的なルールなんだよな。やっぱりぼくの感覚は間違ってなかったんだ! ぼくはずっと、正しい対比と改善をしてきたんだ!!」

 

 

ぼくの正しさがついに客観的に証明されたことが、本当に嬉しかった。

 

 

 

 

 

やっぱり人は話を聞くのが下手

 

しかしこうなると、ぼくが抱いてきた、「人は基本的に話を聞くのが下手なんじゃないか?」という疑念はやはり正しかったことになってしまう(もちろん「話を聞く」のには他にも無数のポイントがあるから一概には言えないのだけど、先ほどから話している3つのルールは基礎中の基礎だからかなり大きいと思う)。

 

ほとんどの人は話し手側のとき、相手にあの3つのルールを守ってもらわないと嫌だと感じるのに、ほとんどの人が聞き手側の時は3つのルールを守らない。これはどういうことなのだろうか?

 

 

たぶん、「ほとんどの人は相手の立場に立てていない」ということなんだと思う。

 

 

そしておそらくその多くは、「相手の立場に立てていない」ということを自覚できていない。

なぜそう思うかというと、いきなり否定やアドバイスをしてくる人たちの比率は、ぼくよりずっと長く生きている大人の人たちとぼくと同年代の人たちとで、あまり変わらなかったからである。

 

そういう過ちを10代や20代の人がしてしまうのは全然いい。ぼくだって少し前までできていなかったのだから。

だが、何十年も生きているのにそういうことをしてしまうというのは、ちょっとどうなのだろう。

「自分は相手の立場に立てているだろうか?」と定期的に振り返る習慣さえあれば、どこかのタイミングでとっくに改善できているんじゃないかと思ってしまう。

 

もちろん、全てにおいてそういう習慣がないとは全く思わない。ぼくが好意を寄せている人のほとんどは色々な場面で驚くほど相手の立場に立てているし、日々様々な反省や改善をしている。「この人は本当に人の気持ちが分かるんだな」とか、「この人はこんなことまで反省できてすごいなぁ」とか思うことは数えきれないほどある。

 

だけど、コミュニケーション、特に「聞く」ことに関しては反省や改善をサボッている人がめちゃくちゃ多い気がする。なぜかは分からないが……。

 

だからぼくは、レンタル話し相手として成功できると思っているのだ。

みんなが凄すぎて到底勝てそうにないジャンルはいくつもあるが、多くの人が反省と改善をサボッている「会話」というジャンルでは、ぼくが相対的に圧倒的に秀でることができるからである。

 

 

 

 

ぼくのウォッチャーのみなさんに言いたいこと

 

ぼくのウォッチャーのみなさんと最近少しずつ仲良くなり始めているのはすごく嬉しいし、ぼくもなるべくこの関係を悪化させたくはないのだが、この際どうしても言わずにいられないので言わせてもらいたい。

 

ぼくがめんたねさんに送ったDMが公開され一気に注目された日、みなさんはぼくに何をしたか覚えているだろうか?

 

 

そう、否定とアドバイスをしまくったのである。

 

 

・何の関係性もできていないのに

・ぼくは何も求めていないのに

・上から目線で

・敵ポジションに入り

・否定し

・アドバイス

・そのアドバイスを聞かないとぼくに言われたら素直じゃないと言い張り

・ぼくが人と会話するところを見たこともないのに「あなたと話したいと思う人なんか誰もいない」と言い

・勝手にぼくの母を気の毒に思い

・絶対に成功しないと決めつけ

 

たのだ。

 

もちろん分かっている。ネットの知らない人とのコミュニケーションなんて雑にするのが普通だし、公開されたぼくのDMがあまりにもおかしかったからぼくのことを軽んじてしまうのも全く無理のないことだ。

 

だけど、ぼくの多様な面を知り、めんたねさんのワークショップを2回観覧した今、こうして並べて振り返ってみるとどうだろうか? ちょっとあまりにも酷かったとは思わないだろうか?

 

別に怒ってなどいない。ぼくのメンタルは超鈍いから全く傷ついていないし、ぼくは逆境に逢うほど燃えるタイプなのでめちゃくちゃ良いガソリンになった。皮肉ではなく本当に感謝している。

 

だが、ぼくのことを自分達に比べて特別に劣っているとみなすのはどうだろう? とは言いたいのだ。

 

ぼくは少なくとも、いきなり否定やアドバイスなんか絶対にしない。どうしてもしたいときは必ず、相手の言うことを全て受け入れ、味方ポジションに入った後にすると決めている。

 

なぜか? 相手の立場に立てているからだ。立てていなかった時はあったが、その自分を自覚し、努力して改善したからだ。

 

そして、謙虚だからだ。最終的に自分のアドバイスが役に立つ場合はあるだろうとは思うものの、基本的には相手が一生懸命考えても分からなかった解決案を他人の自分なんかがパッと思いつけるわけがないと思っているからだ。少なくとも聞き手はそのポーズを取らなければならないと弁えているからだ。

 

  

(もちろん他の部分では、相手の立場に立てていない時や謙虚でない時はたくさんある筈だと思っている)

 

確かに、ぼくには欠点がたくさんある。しかし本当に直さなければならないような重大な欠点は、皆さんが思うほど多いだろうか?

 

note.com

 

例えばめんたねさんのこのnote記事で指摘されている「ナチュラルに失礼」な言動は、本当にシャレにならないものなのだろうか?

 

これまでのぼくの言動を追っている方々なら、ぼくがよく冗談を言うことは分かってくれているだろう。もちろん自分が極めて優れていると思っているのは本当だが、それを口にした時に人々がどういう反応をするかが分かる程度の知性はあるということも、もう分かっているだろう。

 

ぼくがツイートにアップした依頼者の方や友達とのやり取りの動画を思い出して欲しい。冗談で上から目線になって相手を笑わせることはあっても、真面目な場面で自覚していない上から目線を発揮し相手を本気で不快にさせたことは何回あっただろうか?

 

ぼくに本気で怒ったのは、ぼくが知っている中では石炭さんと佐川さんの2人だけだ。石炭さんは誤読して怒っていただけだったからきちんと説明したら怒りを収めてくれたし、後日和やかにZOOM電話まですることができた。

佐川さんは本当にぼくの落ち度で怒らせてしまったので、何の弁明もない。ただひたすら申し訳なかった。だが少なくとも謝罪することはできた(だからいいという訳では決してないが)。

 

 

 

さて、ぼくがめんたねさんに送ったDMは本当にガチだったのだろうか? それとも冗談だったのだろうか? あるいは戦略だったのだろうか?

 

答えは、皆さんの想像にお任せする。

ガチだった場合はガチだったと認めるのは恥ずかしいし、冗談や戦略だった場合は、それを認めるとつまらないからだ。

 

ただ、明らかなことは2つある。

 

1つは、このDMによってぼくの「バズりたい」「注目されたい」という狙いは結果的にかなり上手くいっているということ。

 

そしてもう1つは、ぼくに対して本気で怒っている人は今のところほとんどいないということだ。

 

 

ぼくが本当に失礼なことを言ってしまったなと反省した発言は以下の2つである。

 

「(めんたねさんと佐川さんに対して)DJ社長などの大物インフルエンサーにDMを送るのは手間をかけさせてしまうから申し訳ないけど、フォロワーが1万人ぐらいの人だったらそんなに問題ないと思う」

 

「ノートを取っている人の9割は何も考えていないんじゃないかと思う」

 

両方とんでもない発言だと思うだろう。ぼくも今はそう思う。これらは本当に失礼な発言だったと深く反省している。

 

多くの人が、ぼくが本当に失礼な人間だという根拠なんかこの2つの発言だけで十分だと思うかもしれない。

もちろんそう思ってもらってもいいのだが、ぼくに言わせれば、いきなり否定やアドバイスをしてくる人もめちゃくちゃ失礼だ。ぼくはあまり指摘をしないが、他にも「これは失礼だろ」と他人に思うことはいくつもある。

 

思うに、人はみんな失礼なのだ。

 

何度か紹介しているが、ぼくは以前こういうツイートをしたことがある。

 

 

これはぼくの大きな哲学の1つなのだが、この「バカ」は他の色んなことに言い換えられると思っている。

 

人はみんなバカで、失礼で、傲慢で、相手の立場に立てない生き物なのだ。ぼくだけがそうであるわけではない。

 

そしてぼくは全体的に言えば、かなりマシな方だと思っている。だって少なくとも、自省と謝罪と対比と改善ができるのだから。

 

 

みなさんがどう思うかは自由だ。やっぱりぼくはヤバくてダメなやつだと思ってもらっても全然構わない。

 

ただどう思うにせよ、ぼくのことをウォッチし続けてくれると嬉しい。論理的思考力を証明することは難しいが、話を聞く能力については明らかな成長を見せることを約束しよう。

 

第3回が今から楽しみだ。