「わからない」と思うための対話 第8回 感想

 

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今回のテーマはこれ!

 

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望みの5つの条件の話をした時に、望みには「自分に望むこと」と「他人に望むこと」の2種類あるよって話をしましたよね。

「自分に望むこと」っていうのは語尾が「〜したい」っていう形になります。

 

 

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そして相手に何かやってもらいたいことっていうのは、「〜してほしい」という形になります。

この「自分に対して期待していること」なのか「他人に対して期待していること」なのかっていう違いが、同じ望みであっても大きいんですよ。

 

ほうほう。

 

 

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どういう違いがあるかって言うと、自分の行動っていうのは基本的に自分で決めてるので割と自分が期待している通りに行動しやすいんですよね。とはいえぼくも「痩せたいな」と思いながら食べる量を減らすのが大変なので、自分の行動を何でもかんでも自分の思い通りにスイスイ変えられるわけではもちろんないんだけど。

だから自分への期待を叶えるのはそれなりに難しいんだけど、でも、自分以外の他人に対して働きかけて動かすよりは全然楽なんです。他人っていうのは自分じゃないから。脳みそが違うでしょ。

だから「よし、こういうふうに動かさせるぞ」と思ったからといって動いてくれるわけじゃない。この散歩拒否の犬みたいなもんですよね。他人を動かすというのは大変なんです。

 

よく言われる話だけどその通りだと思う。

 

 

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深い悩みの1つのパターンとして、「他者についての望み」というケースがあるんです。他者に対して「こうであって欲しい」と強く望んでいるんだけど、それがなかなか解決しない。

そのケースっていうのはだいたい、

 

【信念1:相手が変わらなければこの状況はどうしようもない】

 

と思っていて、そういう状況があった後で、そこに更に

 

【信念2:相手が変わる見込みがない】

 

という状況がプラスされています。

この2つがセットになった時、これはどうやったって解決不能なんです。

 

こういうパターンの悩みは特に家族関係に多いですね。「旦那や息子にこうであって欲しいと思うんだけど相手が変わらなければどうしようもないし相手が変わる見込みがない」みたいな。

「これはどうにも解決しないね」みたいな形で深い悩みになっていくっていうのは非常によくあります。

 

図式にすると確かにこうなるか。めんたねさんはよく図式を使って「これとこれがセットになった時に初めて成立する」とかおっしゃるけど、毎回納得感がすごい。

 

ぼくは他者についての悩みを聞いた時は、「『1:相手を変える』か、『2:あなたが変わる』か、『3:相手と離れる』か、3択しかありません」と言っていた。そして2を選ぶ人が1番多かった気がする。

 

 

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「じゃあこういうのどうしたらいいの?」っていうと、すごい簡単に言っちゃうと、相手の話(2つの信念)をそっくりそのまま信じて受け入れて話を聞くんであれば、もう【1:解決不能なので諦める】ですよ。

「あぁ、じゃあ解決不能なんで諦めましょうね」と。だって2つの信念が絶対に正しければこれ以外にないから。だよね。

 

だから基本1なんです。でも、 何で悩んでるかっていったら諦めたくないからなんですよ。大体多くの人は。

で、諦めたくないので何とか悪あがきをしようとした時に、さっきのこの信念1か信念2のどっちかが変わればひょっとしたら解決する道筋が見えるかもしれないっていう話になるわけです。

 

そうなった時、【2:信念1「相手が変わらなければどうしようもない」っていうのをどさくさに紛れて崩していく】っていう方策か、

【3:信念2「相手が変わる見込みがない」っていうのを崩して行く】っていう方策かどっちかを選びます。

 

ただこういうのは、相手が「こうであるんだ」と思い込んでいるものに働きかけをして崩しに行くっていうことだから、久保君がよく怒っているように反発されるっていうのが容易に想像つくわけ。

だからいかにして反発されないようにしながらどさくさに紛れてここを緩めて崩していくかっていうのが働きかける側の腕の見せ所になります。

 

で、そのために1番重要なのは、困ったらいつでも1に戻るということなんです。だって解決しなくても自分困んないじゃん。困るのは相手だから。

「あっそれじゃ無理だね」と相手に困ってもらって、「それじゃ嫌だ」ってなったその力を使って2や3を使って働きかけるということなんです。

 

【3:信念2「相手が変わる見込みがない」っていうのを崩して行く】もいつかやるんだけど、今日は【2:信念1「相手が変わらなければどうしようもない」っていうのをどさくさに紛れて崩していく】の方をやります。

 

めんたねさんは「どさくさに紛れて」っていう言葉をよく使われるな 。一見ふざけてるようだけど、大真面目だろうし本当に大事なことなんだろうな。「あなたを変えますよ」という意志を前面に出されると圧を感じて引いちゃうから、いかに相手に気づかせないようにするかを考えなくちゃいけないんだろう。

 

 

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前回やったことが実は今日やることそのものなんですよ。

というのは、「もっと妻が自分に対して優しい言葉をかけて欲しい」っていうのは「他人への望み」なわけだ。

これをそのままいじるのは無理なので、「自分への望み」に変えてもらうんですよ。

 

 

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そのための質問が前回の質問です。ただ特に「自分への望み」に変換させたい時には、この「あなたにとって」という一言を入れてやるとやりやすくなります。

 

今日は相手の望みを聞いた時に、「これは自身への望みなのか、他者への望みなのか」っていう視点で話を聞いてほしいです。

で、他者に対して望んでいることを自分に対する望みの形に変換してもらって、望みを上(目的の段)に上げて、別のルートを探します。

今日は別にルートは探さなくていいんだけどね。 他人への望みを自分への望みに変えてもらうということをやってもらえばOKです。 

 

 

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今回ぼくはワークで北村さんに話すのとは別に、お試しとしてめんたねさんにも悩みを話す機会をもらえた。

めんたねさんには「ホロコートをなかったことにできないのが悲しい」という世界への悩みを、北村さんには「ドラマ『金八先生』を見ても誰も金八みたいにならないのが不満」という世界への悩みをそれぞれ話した。

 

めんたねさんとの方のやりとりをざっくり書いてみよう。

 

 

久「ホロコーストで亡くなった方がたくさんいるのが悲しいんです」

め「もし仮にホロコーストがなかったら君にとってどんないいことがあるの?」

久「悲しい気持ちが無くなります」

め「それはnot付きの望みだからnotを取るとどうなる?」

久「心が落ち着きます」

め「じゃあ心が落ち着いている状態になれたらホロコーストが無くならなくてもいいの?」

久「え……?(困惑)いや、それは……嫌です。自分の心が鈍くなったってことなので」

め「ということは、ホロコーストに対して悲しい気持ちでいたいってこと?」

久「はい。そうじゃないと自分を好きになれなくなっちゃうので」

め「じゃあ『自分のことを好きでいたい』っていう望みがあるわけだ」

久「はい」

 

 

このやりとりによって自分の感情を言語化でき(「メンタライズする」と言うらしい)」、「自分にとって『悲しみを感じる』っていうのは大事なことなんだ」と気づくなどという効果があるそうだ。

 

それは確かに素晴らしいことなんだけど、ぼくはこの「じゃあ心が落ち着いている状態になれたらホロコーストが無くならなくてもいいの?」という質問に本当に困惑してしまった。

その理由には「自分を好きになれなくなってしまうから」というのももちろんあるんだけど他にも何かある気がして、一体なんだろうとずっと考えていたんだけど、やっとメンタライズできたので言おう。

 

「じゃあ心が落ち着いている状態になれたらホロコーストが無くならなくてもいいの?」という質問は言ってしまえば、

 

 

「自分さえ良ければいいの?」と聞いているに等しいからだ。

 

 

だから「ぼくの心が落ち着いたってホロコーストで何万人も死ぬことが変わってないなら意味ないじゃないか!」と思って困惑したのだ。

 

これは普段から思っていることだった。

ぼくはいつも他人に怒っていて、他人を変えようとしている。そのぼくに対し、「他人は変えられないから他人を変えようとするのは諦めて自分を変えようとした方がいいよ」と涼しい顔で言ってくる人はこれまで何人もいた。でもその度にぼくはこう思うのだ。

 

 

「そしたら他人が良くならないじゃないか!!」

 

 

と。

 

確かに「自分の不満をぶつけたい」「怒りを分かってほしい」という気持ちもある。だけど同時に、「この人に良くなってほしい」という気持ちもあるから怒っているのだ。ぼくが怒ることで「あぁそうか、これは良くなかったんだな。改善しよう」と相手に思ってもらえればそれだけ世界が良くなるではないか。

一方、自分だけの問題と捉えて相手に怒るのをやめれば、相手は変わらない。相手は自分を不快にさせた言動を他の人にもするだろうから他の人も不快になるし、その「他の人」から嫌われて相手も不幸になってしまう。

 

結果、良くなっているのは自分だけだ。何の衝突もないかもしれないが自分以外は誰も救われない。完全に「自分さえ良ければいい」の世界である。

 

ぼくはそれは絶対に嫌だ。自分を犠牲にしてでも世界を良くしたい。

 

だから、「他者の問題だと思っているものも実は全部自分の問題」という考えはこのワークショップ以外でも聞くが、この考えがぼくは嫌いだし反対したい。他者の問題は他者の問題であり自分の問題にすり替えてはいけない。

なんなら「自分の問題だと思っているものも実は全部他人の問題」とさえ言えるかもしれない。自分に未熟な部分があるのは自分を育ててきた親や学校や国のせいだろう。それらを改善していくには自分の問題を他人の問題にすり替えていかなければならない。

 

誤解しないでいただきたいのだが、これは「すり替えること『も』しなければならない」という意味である。

自省(自責ではない)はもちろん必要だ。それはしっかりやらなければならない。だがそれで終わらせず、自省した後でちゃんと他責をしなければならないということだ。

 

 

ちょうどつい数日前、芦田愛菜さんが名言を言ったという記事がバズっていた。なんでもこう言ったらしい。

 

人は『裏切られた』とか『期待していたのに……』とか言うけど、それはその人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたとき、それもその人と受け止められる、揺るがない自分がいるのが信じられることかなと思う」

 

この考えはネットで大絶賛されていたし、ぼくも素晴らしいと思う。だがそれは「その人の見えなかった部分が見えただけ」というところまでだ。その先の「それもその人と受け止められる」の部分には反対である。

受け止めてはその人が成長できる機会がなくなってしまうので、受け止めずにちゃんとキレてあげるのが優しさだと思う。キレることから逃げてはいけない。

 

 

このワークショップで習った「他者の問題を自分の問題に置き換える」という手は、他人を変える能力や余裕がない人が使えばいい。

だから人から相談をされた時は普通に今回習った質問を使うが、ぼくは今回のホロコーストのようなどうやっても変えられない問題以外は変える能力も余裕もあるので、ぼく自身がこの質問を自分に使うことは基本ないだろう。

 

これからもぼくは全力で他責していく。